渋谷駅周辺は地名の通り、谷形の形状をしています。
そのため、多くの坂が存在しています。
中でも有名な坂が、「道玄坂」と「宮益坂」。
今回は繁華街に通じる、このふたつの坂の歴史と変遷を紹介します。
道玄坂の概要
道玄坂は、渋谷駅ハチ公口前から目黒方面へ向かう坂道です。
渋谷の繁華街を代表するスポットでもあります。
現在は、坂のふもとに渋谷駅があります。
坂の途中には、SHIBUYA 109をはじめとするファッションビルや、東急系列の商業施設が並んでいます。
他にも雑居ビルが軒を連ね、飲食店やアパレルなどさまざまな店舗が展開されています。
道玄坂周辺は多種多様な業態の店舗が多く、道玄坂から文化村通りへつながる小道にも多くの店舗があります。
交番前交差点から円山町と接しているランブリングストリートには、ライブハウスやラブホテルが密集しています。
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道玄坂の由来
道玄坂の由来は諸説ありますが、ひとつは山賊であった「道玄」という人物に由来しているという説。
道玄が生きていた時代は、鎌倉時代にまでさかのぼります。
鎌倉時代に勢力を振るっていた和田義盛の一族とされる「大和田道玄」。
和田氏が北条氏によって滅ぼされた後、彼が一族の数名を率いて、現在の道玄坂上で山賊となり、旅人相手に衣類や金品を奪っていたといわれています。
なお、大和田道玄は、相模国高座郡(現在の大和市や綾瀬市付近)に住んでいた高座・渋谷氏の残党という説もあります。
渋谷氏は、桓武平氏の子孫である秩父氏から分かれた一族。
同じく鎌倉時代に高座・渋谷氏が滅亡した折、その残党が現在の渋谷一帯を領有していた武蔵・渋谷氏を頼って渋谷付近に住み着いたといわれているのです。
もうひとつは、坂に「道玄庵」という庵があったからという説です。
道玄庵という寺の庵主が大和田道玄であったかは定かではありませんが、その人物が徳川家康に由緒書を出したといわれています。
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道玄坂の変遷
道玄坂は、1970年代半ば頃まで民家と店舗が混在するエリアでした。
1930年代に道玄坂があった東京府豊多摩郡渋谷町が、東京府東京市渋谷区の一部となり、京王井の頭線が開通しています。
1965年(昭和40年)に、今でいう道玄坂1丁目に、現在の渋谷東急プラザとなる渋谷東急ビルが開業しました。
1967年(昭和42年)には、今の道玄坂2丁目に、東急百貨店本店が開業。
1977年(昭和52年)には、現在の東急田園都市線となる東急新玉川線、1978年(昭和53年)には地下鉄半蔵門線が開通しました。
1979年(昭和54年)には、道玄坂2丁目に現在のSHIBUYA 109となるファッションコミュニティー109が開業しました。
この頃から繁華街として、店舗系のビルや業務系のビルが増えていくことになります。
2000年(平成12年)には渋谷マークシティが、2019年(令和元年)には渋谷ソラスタと 渋谷フクラスが現在の道玄坂1丁目に立て続けに開業しています。
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繁華街としての道玄坂は、2012年(平成24年)に東京都の条例に基づき、規制が強化されました。
これによって、公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為等防止を目的とし、客引きやスカウト、それらを行うために待機する行為などが禁止されました。
さらに2019年(令和元年)、東京都は暴力団排除条例に基づき、道玄坂を含む渋谷の繁華街一帯を暴力団排除特別強化地域に指定しました。
これにより、強化地域内での暴力団員との間でのみかじめ料のやりとりや便宜供与などが禁止され、違反者は支払った側であっても懲役1年以下または罰金50万円以下の罰則が科されることと決まっています。
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宮益坂の概要
宮益坂は、東京都渋谷区の渋谷駅から青山通り(国道246号)に上がる坂道です。
坂の上で、金王坂(国道246号)の頂上と合流します。
宮益坂の由来
宮益坂はかつて、「富士見坂」と呼ばれていました。
江戸時代にはこの坂から富士山が一望できたことが、その名の由来です。
ただし坂の下に東横デパートが完成したころから、富士山は見えなくなってしまいました。
江戸時代には、町名がもともとの「新町」から坂の途中にある御嶽神社の御岳権現にあやかり、「宮益町」に変更されました。
その際にこの坂が「お宮さまのご利益を願って」の意味から、「宮益坂」と呼ばれるようになりました。
御嶽神社は元亀年間に起源を持つとされる宮益町の氏神です。
宮益坂北側の旧町名である「美竹町」は、御嶽神社に由来しています。
社殿前に鎮座する日本狼による狛犬が有名です。
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宮益坂の変遷
宮益坂のあたりにはかつて、大山街道における江戸市中と郊外農村の接続点として、小さな商人町がありました。
行き交う旅人たちの休憩所として茶店や酒亭ができ、名店もあったという記録があります。
当時の旅人にとっては、江戸を出発して三軒茶屋のひとつ手前の休憩地となっており、上渋谷と呼ばれるエリアの中心としてにぎわっていたそうです。
そのため、早くからにぎわっていた金王八幡宮周辺に対して「新町(渋谷新町)」と呼ばれていました。
このエリアは御嶽神社や千代田稲荷の門前町でもあり、1713年(正徳3年)に町並地となって町奉行の支配下に入りました。
「新町」から「渋谷宮益町」と名前が変わったのは、このときです。
宮益坂は長い間、小さな商店と職人、飲み屋街となっており、明治時代中期になるまでは民家は坂の両側に一列あるのみでした。
宮益坂下の交差点付近は、明治時代には水田が広がり、藁葺の家が建っていたとのことです。
明治8年(1875年)には渋谷小学校が開校しました。
渋谷小学校は渋谷区で初めてつくられた公立小学校であり、「渋谷区近代学校教育発祥の地」とされています。
渋谷小学校の建設にあたっては中渋谷村の人々の尽力があり、当初は村民が所有する渋谷川の水車の利益で学校運営をしていたそうです。
設立当初の教員は3名で生徒は84名しかおらず、当時の宮益坂周辺の人口の少なさが伺えます。
明治時代には山手線の開通前、宮益坂上から新橋まで定期運行する馬車が走っていたそうです。
1937年(昭和12年)には、宮益坂に並行して、現在の東京メトロ銀座線となる東京高速鉄道渋谷線が竣工しました。
また、宮益坂にはかつて妙祐寺という寺がありました。
この寺は弘安9年(1286年)に一遍上人によって建てられたと伝わっています。
当初は天護山学恩寺いう名前であり、寛永年間に満歳山学恩寺と称し、延宝5年(1677年)に妙祐寺と名前が変わりました。
長く宮益坂にあった妙祐寺ですが、1945年(昭和20年)に戦争によるアメリカ軍の空襲を受けて被災してしまいます。
その後、1952年(昭和27年)に世田谷区に移転してしまいました。
跡地には12階建ての「宮益坂ビルディング」が建設され、2016年(平成29年)まで約63年間、「日本最古の分譲マンション」として多くの人が住んでいました。
現在は2020年(令和2年)に15階建ての新築マンションとして建て替えられています。
宮益坂は2023年(令和5年)には東京都市再生プロジェクト(東京圏国家戦略特別区域)の特定事業として認定され、東京都と渋谷区から都市計画決定の告示を受けました。
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